晶馬と陽毬 -愛と罪-
輪るピングドラムのアニメ全話と劇場版を見終えて、個人的に1番引っかかっているところ。
陽毬が晶馬に向ける気持ちは愛であり、所謂「恋」だったと思われる。
「私本当はショウちゃんのことがずっと…」の後に続く言葉はきっと―
しかしその辺り疎い晶馬とはいえ、地上で最初の男と女の話をわざわざ陽毬に持ちかける訳だから、子供とはいえ多少なりとも「恋」のような感覚があったんじゃないか?
何故晶馬は陽毬を完全に妹として見ているんだろうというのが謎だった。
家族に迎え入れたからにはそれが正しいのだが、本当に初めから妹でしかなかったのだろうか。
晶馬の性に対する関心や欲求は"友人の山下"という形で取り除かれてるようだから、そもそも家族愛と性愛の区別がないのか?とも考えたが、新たに思いついた仮説が1つ。
最初は恋にも似た想いで、守りたい1人の大切な女の子として接していた時期があった。
しかし自分の両親が95年の事件の容疑者だと発覚して以降、実子であることから罪の意識が強かった晶馬は陽毬に対して罪悪感を抱くようになる。次第に愛よりも申し訳なさが上回る状態が定着した。
家族に巻き込んでしまったが、その枠組みは取り払えない。表面的に妹として接して、家族ごっこを続けるほかなかった。陽毬に対して、無意識のうちに理想の妹像を押し付けていた節が見られることからも、罪悪感からいつしか「愛する」という感覚が麻痺していたのではないかと思う。
この仮説に至ったきっかけは、韓国のWeb漫画である「Super Secret」という作品と結びつく点があったからだ。
作中で主人公が付き合っている先輩に対して「悪いと思う気持ちは愛じゃない」というセリフを言う場面がある。
先輩には元交際相手がいて彼女のことをずっと憎み続けていた。「憎愛」という言葉があるように憎しみは一種の愛だが、自身に負い目を感じて現彼女である自分にいつも謝ってばかりだった彼のその気持ちは愛ではない、と主人公はきっぱり言い放つ。
確かに!と感銘を受けた。自責の念が伴う言葉や行動は「愛」とは違うのかもしれない。
だからこそピングドラムは廻らなくなって陽毬は1話で死に至ったとも考えられる。
3人個々での巡る想いはあっただろう。でもそれは独立して、それぞれ独りよがりだったのではないか。
冠葉は火葬場で絆創膏を貼ってもらった時から陽毬の事を家族以上の存在として愛していたが、劇場版エンディングで「ずっと見て見ぬふりをしていた」というセリフがあったことから自身の気持ちを抑えてただろうし、何よりその想いは限りなく一方通行だった。
残酷な言い方をすると、陽毬は恐らく最終話近くになるまで冠葉のことは眼中になかった(意図的に外していた?※)と思う。
※冠葉が自分を見る目は家族に向けられるものとは質の違うものということに何となく気付いており、治療費の工面法と同様に見て見ぬふりをしていた可能性
(→冠葉と陽毬はお互い本音を隠して向き合っていなかった?後に言及する運命の果実という観点での繋がりも、最初に陽毬が倒れた時点では無い)
意志とは関係なく家族になったから一緒にいて当たり前で、大切ではあるけど特段意識はしない。
自分を見つけ出して選んでくれた、罰でもいいから一緒にいたいと思えた運命の人である晶馬とはある意味対照的な存在。
それが陽毬にとっての冠葉だったと推測している。
セーターを編むシーンでわざわざ冠葉だけに男の人にあげるものでこの色どう思う?と聞くあたりも、天然と言うより意図的に「あなたはそういう対象ではないからね」ということを仄めかしてる気が…
(個人的に陽毬は一般論で言う「綺麗で純情な女の子」ではなく、意外にシビアで酸いも甘いも噛み分けた女の子だと感じておりそこが好きだったりする)
また眞悧に自分の居場所が無くなる気がして〜と相談するに至ったきっかけについても、晶馬と苹果がキッチンに並ぶ姿だった訳で…
つまるところ陽毬が本能的に求めてたのは晶馬の隣というポジション。
運命の果実の受け渡しという観点では
冠葉→晶馬→陽毬
という流れになっており、冠葉が高倉家に迎え入れられることになったのは父がピングフォースの人間かつ高倉剣山の友人であったからという理由で、陽毬とは直接的な繋がりがない。
その状態が膠着したまま、事件の全貌が発覚し両親は失踪、3人それぞれが取り繕った形で家族ごっこを続けてきたのが1話だったと考えられる。
そこから陽毬が倒れて一発目の「生存戦略しましょうか」で冠葉から運命の果実の半分(元々晶馬に分け与えてたから4分の1)を受け取り冠葉→陽毬の流れが新たに生まれた。
最終的に晶馬は冠葉からもらった運命の果実を陽毬経由で、更に陽毬は晶馬からもらった4分の1を合わせて冠葉に返したことで、循環が成立しピングドラムは再び廻りはじめる。
晶馬が自身から「加害者の息子」というレッテルを剥がして愛を伝えられるようになったのは、苹果の影響が大きいと思われる。
過去に囚われず自分を見てくれた苹果に「愛してる」を告げて、運命を乗り換えた代償を請負うことになるわけだから。
では陽毬への罪悪感は?という点について。
最終局面で陽毬が生死を彷徨う最中、恐らく夢の中だと思われるが晶馬にキスをするシーンがあり、そこで陽毬の本心に触れて罪の意識から解放されたのではないかと思う。
それ以降の晶馬にとっての陽毬は、高倉という家族ではなく、冠葉と自分2人兄弟にとって大切な妹という捉え方に変わったと感じた。
結局のところ、晶馬にとって恋愛対象という意味での運命の人は、ファーストキス(正確には人工呼吸)をして運命日記(綴られてた内容の意義は不明だが)の出来事を塗り替えてしまったことからも苹果という説が有力そうだ。
しかしながら、
あの日あのマンションで陽毬を見つけ、自分のマフラーを渡して、こどもブロイラーから救い出してまで一緒に生きたいと思った晶馬の気持ちは間違いなく「愛」であり「初恋」だったと私は思う。
幼さゆえに判別がついていなかったかもしれないし、その後の悲劇で形を変えてしまったけれど、3兄妹の循環を経て再び実った果実は誰かへと受け渡され、運命を廻し続けるのだろう。
(おまけ)
私の好きなDiosの逃避行という曲の歌詞が、完全に私が思う冠陽で脳内MAD暴走中なのでぜひ聴いてみてほしい。。。
特に
「この世界のどこかに 運命の出会いがあるとして 興味無いね 喧騒に逃れて笑ってる」
のところを、
運命の出会い=晶陽 で自分は陽毬の運命の人ではないという自虐だと解釈してオアー!(尊死)になってる
あと
「明日へ繋がる糸を切ってでも 君が欲しいと心が叫んでいる」
「交わしたキスを永遠にしてしまえよ」
「この手は離せないんだ」
これはもう……
Dios - 逃避行 ("Runaway" / Official Music Video) - YouTube